タキザワ自動車は1980年創業
2026/06/04
タキザワ自動車は1980年創業
創業への経緯、タキザワ自動車の歴史を見てみよう
新潟県から上京
この記事を書く2026年現在に至るまでの足跡を辿る
画像は、最初に建てた工場です。2階が住まいで、下が工場という昔には良くあったスタイルですね。この工場を建てるまでにも相当な苦労をしたそうです。
創業者会長である滝沢一三(たきざわかずみ)
※以下 一三氏
下記のおける文書は全て取材しながら打ち込みました。誤字脱字などあるかもしれません、75歳を超えてからの取材です。記憶違いもあるかもしれません。予めご了承ください。
一三氏の出身は現在で言うと、新潟県上越市大島区の出身です。当時は大島村だったそうです。
当時も今も山しかありません。滝沢家に4人兄弟の末っ子として生まれ大自然の中育ちました。
小さい頃からバイクや乗り物、機械全てが好きだった。小学生の無免許でスーパーカブを乗ったりしていたそうです。
時効って事で許してください。笑
なんならそのスーパーカブのエンジンを分解して遊んでいたそうです。
そんな一三氏も中学を卒業のタイミングで上京する事に。
一三氏の父からは、こう言われていたそうです。新潟は雪が降る、雪かきは無駄だ、冬は仕事できないし、春になれば溶けてしまう。東京に行きなさい。新潟に残るな。と教育された模様。
新潟から出てきた一三氏は、整備屋さんになりたかったそうです。
整備屋ではなく板金屋に変更
蕎麦屋でのお手伝いから始まった
既に上京していた兄がいました。その兄が経営していた蕎麦屋(江戸川台周辺)での居候開始。
上京後、整備関係の仕事をしたいなと思いつつも、アテが無かった為、蕎麦屋でのお手伝いをしていたそうです。
ざるそばを何段も重ねて自転車で運んでいたそうです。もちろん転んで蕎麦を台無しにしてしまったエピソードなども飛び出します。笑
その蕎麦屋の近所に、たまたま鈑金工場があったようです。
そこへグチャグチャにぶつかったホンダN360があり、それを横目で見ていたそうです。それが数日後にキレイに直っていたのを見て。それはそれは衝撃が走ったそうです。
あんなグチャグチャだった車が直ってしまった。。。
魔法のようだと。。。。
そんな仕事があるんだなぁと感心していた一三氏。
マツダディーラーの営業マンとの出会い。
その出会いは突然やってきます、兄が乗っている車はマツダ車、蕎麦屋へ営業しに来たので車の話をしたそうです。
その営業マンとの出会いにより人生は大きく舵を取るのでした。
そうか君は整備をしたいのか。
でもね。
これからは車が故障しなくなるだろうから、事故でぶつかった車を直す方が儲かるよ。
そんなこんなで鈑金職人になる事を決心したそうです。
その出来事は17歳の時でした。
兄の蕎麦屋仲間から鈑金屋を紹介してもらい、東京三ノ輪へ引っ越し、丁稚奉公(でっちぼうこう)が始まる。
※画像は最初の工場を建てる際の地鎮祭ですかね。
女性は一三氏の奥さんです。
厳しい鈑金屋の修行
夜中まで鉄板を叩く日々
当時の鈑金屋さんというのは、大変だったんです。
現在ではドアパネルを注文すれば、すぐに入荷します。
当時は輸入車のドアが無いなどザラです。
交換レベル損傷のドア直すか?
表面の鉄板を貼り換えるか?
の選択になります。
貼り換えの場合鉄板一枚からドアを作るんです。
今の時代では考えられません。
できる人はいますが、全国的にも絶滅危惧種くらい少ない存在となりました。
鈑金修行中は給料がポケットからでてくる小銭だったそうです。給与が安い為、生活が苦しく三ノ輪でも蕎麦さんでアルバイトをしていたそうです。
修行中は毎日のように怒鳴られ、仕事の覚えが悪いと言われ、ハンマーが飛んでくるし、つま先をハンマーで叩かれたりと今では考えられないような育成方法です。
それがくやしくて夜中まで廃棄するはずのドアやフェンダーなどを叩いて練習する日々は続きました。
夜中まで練習していると、近所の人から文句の電話がきたそうです。トンカンうるさいと。
修行を終えた理由
自分で工場を借りて、夜中に仕事をこなす
三ノ輪での修行を終え、松戸市内の鈑金屋へ。
そこで一人前の職人として働きつつ、自分で柏市藤心で車1台が入るだけの小屋を借りて、そこで友達からの紹介で仕事が入ってきており、夜中や日曜に修理をしていた。
当時の小屋での屋号は【大判社】という怪しい名前でした。
そして、大判社の評判はみるみるうちに広がり、自分の働いている工場よりも、入庫台数が増えてしまい完全独立を決意。
タキザワ自動車創設となるのですが。。。
その小屋でのエピソードを少し
夜中に風が強いときに屋根のトタンにどんぐりが落ちてきて、そのトン!コロコロコロ・・・
という音でびびっていたそうです。笑
その小屋で夜中に作業中、友達が彼女を連れて遊びに来たそうです。
おい、お前こんな所で夜中まで仕事してないで、俺と飲み行こうぜ!そんなんやっても儲からないぞ!どうせ工場なんか持てないぞ!と揶揄されてそうです。
それはそれは腹が立ったそうです。ですが、創業者です。やりきるタイプの男は違いました。
自分で工場を建てる為、夜中まで働きひたすらにお金を貯める。仕事が終わり、運送のアルバイトをする。
ネギを2000束をトラックに積み込み、築地などの市場で降ろす仕事など。とにかく当時は現金が物を言う時代。
一三氏の給料は安く、住宅ローンが組めなかった。
しかし徹底的に夫婦でお金を貯めたのです。
新工場設立には壁
さぁ!新工場設立するぞ
とにかく貯金しました。そして700万円の現金を手にあらゆる不動産屋さんを回ったようです。
当時の新築住宅価格がおよそ1800万円程度。半分近く貯金があるのに、なぜかローンが通らないのです。
与信がないのでしょう。連帯保証人も身内を頼れない。
現在の価格で言えば、松戸市で新築建売が4500万円程度なので、2000万ほどの現金をもっていたような計算です。
それでも通らない。誰も相手にしてくれない。
捨てる神あれば拾う神あり
なんてことわざがありますが、散々どこも見向きしてくれなかったのに、とある出会いが人生を大きく変えました。
最後に相談に行った不動産屋さん
松戸市五香にある岡田住宅の当時の社長が、一三氏夫婦の大量の貯金通帳を見せて涙を流したそうです。
お前らはこんなにしてまで自分の工場が欲しいのか。泣
それは毎日500円を何年も貯めていたんです。しかもアパートから銀行まで徒歩で貯金しに行くんです。
その他にも夫婦の給料、アルバイト給料も入れていました。
まさにフルBETです。
通帳を見せて信用を得た
当時の岡田社長は俺がなんとかしてやる!と、銀行マンを呼び。定期預金だとか付き合うから滝沢に金を貸してやってくれと。銀行に頭を下げてくれたのです。そこから一三氏は無事に融資を受け、新工場設立となったのです。
時代なのかもしれませんが、とても義理人情を感じるエピソードですね。
設立したが、仕事は少なかった
仕事集めるのが失敗つづき
車を修理する腕があっても、仕事を集められなければ大変です。友達からの伝いでくる仕事にも限界があります。そこで、あらゆる整備屋さんやディーラーにも営業をかけたそうです。
とは言え、職人が営業なんかできないのです。どうやって話すれば良いのかもわからない。テクニックなんかない、そんな口ベタな営業。全然仕事はとれずの日々は続く。
とにかく車の仕事なら何でも引き受けたそうです。安い仕事もあれば全塗装も何でもです。
それが功を奏して少しづつ入庫が。
徐々に腕が見込まれ仕事が増えていった。
様々なニーズにも答えるのは今でも変わりません。できれば安く修理したい、保険修理でついでにこっちも直したい、免責のお金をなんとかしてほしい、ローンを組んで修理したい、中古部品で修理したい、車両保険で修理した、相手の保険で修理したい、大きい事故を修理したいなど、様々な悩みが車にはあります。すべてのニーズに頭を使います。これがタキザワ自動車の本質であり理念とも言えます。
画像は最初の工場。珍来紙敷店側からの写真です。
松戸市在住40年以上の方ならわかるはず。
画像にある赤い車の所は、更に広げるべく開業翌年に購入した土地です。もちろん借金は膨れ上がったそうです。
岡田住宅の社長には、お前は欲張りだな(笑)と言われたそうです。
河原塚中学校や、電柱の政治家さんの写真、バスなど当時を感じられる1枚となっております。
車社会突入
高度経済成長期、バブル時代突入
画像の真ん中の赤ちゃんは現社長の滝沢和也氏
今でもありますが、武蔵野線が見えます。周りの木々は大きくなっております。位置関係としては右側が珍来なイメージです。
世は高度経済成長期です。人口は増え、お金も物も動く、土地の値段、株価は右肩上がり。生活家電の普及により生活はより豊かに、車の所有世帯も急増した時代です。近くの五香商店街に行けば人がごった返していたのを記憶しております。人が多かったんですね。
でも今よりも道路はガタガタですし、シートベルトしたらカッコ悪い、タバコ吸ってた方がカッコイイ、暴走族や走り屋がウジャウジャ、インベーダーゲームのある喫茶店、カラオケ喫茶が大流行。バブル景気なんて味わった事が無い世代からすればうらやましい限りです。
しかし車はというと、現在の車と比べれば安全性能は低く、事故は多発していた。そこで需要が高まった鈑金塗装業界です。
数十年前ですので数字までは把握できませんが、大幅に収益も上がっていた事でしょう。
工場が遊び場
幼い職人さん
和也氏は小さい頃、暇になると工場へ行きます。
というか毎日行きます。
だって、工場の上に住んでるんですから。笑
ペダルカーは乗る物なのですが、乗るのが飽きると分解していたそうです。しかし元に戻せなくなり、父の一三に直してもらっていた。
ダメな事ですが、1円玉を拾って鈑金ハンマーでひたすらにどこまで伸びるか試していました。
見よう見まねでパテを研いだり、サフェーサーを研いだりと、本人は手伝っているのですが、職人たちからすれば、本当に邪魔だったと思います。笑
捨て犬を拾い、番犬としていて、当時の世話役は僕がやっていました。良く捨て猫や犬を拾ってきてしまう子供でした。大人になりましたが今でも捨て猫は放置できません。笑
第2工場新設
現在の事務所&塗装工場です
2001年 タキザワ自動車は更なる飛躍を遂げ
第2工場を新設
より一般ユーザーの方の利便性を高める為、受付フロントを拡充、塗装工場として拡充し、今までの工場は鈑金工場のみと住み分けする事により、より多くのお客様の受け入れが可能となりました。ホームページやSNSを配信し、全国から修理依頼が殺到する会社になりました。こちらの塗装工場を新設してからは塗料ブランドを変更、スタンドックスからデュポン(現在アクサルタ)へ変更しました。更なる品質向上を図っております。
更に数年後、新工場の隣の土地を購入し、駐車場の確保ができました。より多くの車両受け入れができるようになりました。
2020年に、社長は代替わりし一三氏は会長へ就任、和也氏が社長となりました。
攻めるのも大切ですが、守るのも大事。
設備投資は当然、車は進化する為、新しい技術や設備投資は重要と考えています、しかし今まで使っていた工場の老朽化もあり、そこも守っていかねばなりません。
従業員も守りたい。今の時代はお客様はもちろん従業員を大切にできない会社は消えていく。当社はどこの会社よりも従業員を大切にし、昔のような深夜に及ぶ残業はさせず、給与も底上げし、休日を増やし、社会保障も充実したホワイト企業へと変貌を遂げております。
車の修理を通して社会貢献し、従業員の生活や健康を支え、より会社を拡大していきます。
守りながら攻める、と言えばわかりやすいかもしれません。
タキザワ自動車の歴史はまだここから続きます。
大きな進展がありましたら書き足していきたいと思います。
筆者 タキザワ自動車代表 滝沢和也
